時のしるし6 【最後の審判】

 

 ミケランジェロの「最後の審判」という有名な絵があります。そのテーマは、聖書に書かれているメッセージ、「人は死後に生前の行為をさばかれる」という意味です。

 

 私たちの周りの死は「時のしるし」のひとつです。死があなたにもいつか起こるというしるしです。

 

「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか?」

 

 この言葉は、フランスの画家ゴーギャンの有名な絵の言葉です。この問いかけは人類の永遠のテーマではないでしょうか。我々の存在とは何か、いずれ直面する死後の世界はどうなっているのか。しかし、人はそんな大切な問題を深く考えずに、日々の暮らしに目を向けて生きています。

 

 知恵ある者の心は喪中の家に向き、愚かな者の心は楽しみの家に向く。

 (伝道者の書7章2節)

 

 世界中の流行歌には、「永遠」という言葉がよく使われています。人は死ぬ存在なのに、なぜか永遠を想うのです。それは人の心には永遠という概念がセットされているからです。

 

 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。

神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。

 しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。

(伝道者の書3章11節)

 

 

 この世には死という強敵がいます。どんな偉人も死に勝つことはできません。しかし、そんな定めの人間も「永遠」を想い、憧れます。死とは何なのでしょうか? 永遠とは何でしょうか? 

 

 聖書の死後の世界を学ぶ前に、現代人の死後に対する考えを考察してみましょう。現代人の死後に対する考え方は、おもに三つあります。あなたは以下の3つの内の、どの死後の世界を今信じていますか?

 

1、      死後は無になる、または全員天国

   →神はいない。死後のさばきもない。みんな同じ結末

 

2、      死後は輪廻転生する

   →因果応報の法則で次の世で生まれ変わりが違う。カルマの法則。

 

3、      死後に生前の行為をさばかれ、天国か地獄かに行く

   →神はいる。死後に全員が神にさばかれる

 

 この中のひとつが正解なら、確率は三分の一です。しかし、現代人の多くは1番の答を、深く考えずに簡単に選んでいるようです。

 

1、   死んだら無になる

 

 「死んだら無」という考え方は、ある意味、神はいないから絶対的な基準もない、だから死後のさばきも無いと信じることです。たとえどんな人でも、死後は同じ結末になるということです。つまり、この世でどんなに恐ろしい罪を犯したとしても、死ぬまでバレなければ無罪放免ということです。

 司法は人間界にだけ存在し、動物界には存在しない制度です。動物には善悪がないので、罪がないからです。しかし、人は善悪を知っているので、正義を保つために悪を裁きます。しかし、この世の司法制度は不完全なものです。なぜなら裁く人間自体が不完全だからです。そこで、冤罪や間違った判決が出ることもあります。事件が迷宮入りになることもあります。ですからこの世には、完全な正義も公平も存在しません。

 この世の不公平のひとつは、結局どんなに悪いことをしても、公平にはさばかれない、ということではないでしょうか。人はこの世で犯した罪は裁かれて当然と考えるのに、 この世で暴かれなかった罪は、さばかれることなく終わるのだと考えるのは、不思議なことではないでしょうか。死は誰にでも公平に訪れるのに、罪は公平に裁かれることなく終わるというのは自然でしょうか。

 

2、輪廻転生する

 

 輪廻転生とは、人は生前に犯した善行や悪行の結果次第で、次に生まれ変わるものや人生が変わるという考え方です。カルマの法則や因果応報という信仰です。すべては自業自得です。自分で行った事が、結局いつか自分に跳ね返って来るという考えです。これは、1番の「死んだらみな同じ結末」という考え方よりも、一見公平な感じがします。

 善行をした人は、死後に高等な生物や、幸せな人生になり、悪行をした人は、死後に下等なものや、不幸な人生になるという、裁きのシステムです。しかし、そうなると、自分に不幸が訪れた時は、生前の罪の罰として、甘んじて受け止めなければなりません。人生が順風満帆の人は善人、不幸続きの人は、たとえ当人には罪がなくても、その人は前世の罰を受けている罪人ということになります。その輪廻サイクルから抜け出すには、功徳を積んだり、修行をしたりする「行動」の必要性が出て来ます。

 どんな人でも罪を犯しているので、「こんな風になったのは、あなたの罪のせいだ」と言われると、なかなか反論できないでしょう。そこで言われるがままに行動してしまいます。

 輪廻転生を信じる人が、かつて言っていたのですが、「飢餓難民などは、生前に犯した罪の結果でそうなっているので同情の余地はない。豊かな日本に生まれた私たちは生前の善行の結果でそうなっているのだから正しい」と。しかし、これは苦難の中にある方々を見下す罪になるのではないでしょうか。

 この信仰は、罪と罰の公平性と、悪に対する一時的な抑止力にはなりますが、苦難に対する同情心を失わせる結果となってしまいます。

 キリストの時代にも、障害者に対してその様な考え方がありました。しかし、キリストはこう言われました。

 

 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。

弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。

 「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」

 イエスは答えられた。

 「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。(ヨハネの福音書9章1〜3節)

 

 キリストは因果応報を否定しました。どんな人も罪人で、ある意味障害者なのです。

 また、輪廻転生には、次の生まれ変わりを決める善悪の基準は何か、そのシステムができたのはどうしてか、いつからそれが起こったのか、それはなぜか、それらは全く不明のままです。

 

3、死後に最後の審判があり、天国か地獄へ行く

 

 この考え方は聖書的ですが、誤解もあるので詳しく説明しましょう。

 

 もともと神を信じない人は、死後のさばきを恐れていません。ですからどんな悪い事でも実行できる土壌があります。また、自分は多少悪いこともしたが、それ以上に善行や功徳も積んでいるから大丈夫と思う人も、さばきを恐れていません。自分は他者より善人の部類に入ると自負しているので安心しています。しかし、善行とは「人としての当然の行為」に過ぎないのです。人として当然の行為を行っただけなら、その善行に罪を消す力はないはずです。少しでも罪が残る限り、その人は完全な義人ではありません。罪がある限り、罪人として死にます。全員が罪人なので、人と比較しても仕方ないのです。

 

 社会のルールを守るのは、破れば罰則があるからです。聖書の語る罪とは、社会のルールを破るということではありません。当然ながら人間の自己中心的な善悪の基準でもありません。人の定めた基準はころころ変わりますが、変わらない神の律法があるのです。その律法は誰の心にも良心としてセットされています。

 

 人は良心の基準も自己中心的に言い訳して考えます。これが罪です。キリストの時代のパリサイ人もそうでした。「人を殺してはならない、姦淫してはならない」という神の律法を、実際に殺人や姦淫を犯すのではなく、心の中でなら犯しても罪にならないと定義し直したのです。しかし、キリストは、心の中で犯される殺人や姦淫も、神の目には罪になると教えました。しかし、そうなれば誰一人、律法をまっとうすることはできません。全ての人が罪人になってしまいます。神の完全な義の前には、誰ひとり義とされないのです。

 

 キリストの使命のひとつは、人はみな罪人であり、誰ひとり律法を全うすることができない罪人であると教えることでした。

 

罪から来る報酬は死です。(ローマ6章23節)

 

 人が罪を犯した時、人は永遠の存在から死ぬ存在になりました。神から離され、永遠のいのちを失ったのです。罪の報酬を受けて死に、死後にさばきを待つ囚人となりました。自力で天国(神の国)に入れる人は、誰もいなかったのです。

 

 しかし、正義の神は人を激しく愛していました。でも神が人を愛しているからといって、人を罪人のまま無罪放免にすることはできないのです。もしそうすれば、悪魔も無罪になってしまうことでしょう。神は赦したくても赦せないのです。

 神は悪魔の刑罰の地を用意しています。それが火の池(一般的には地獄)です。罪人は悪魔と共にそこへ行かねばならない運命となりました。

 そこで神は、愛する人をその様な悲劇から救い出し、神の元へ戻す脱出計画を示しました。それがキリストの十字架です。

 

 神の国(天国)に入る資格は義人であることです。しかし、人は罪人です。そこで、人の罪を消して、人を義人に変える必要がありました。それを実現するためには、人の罪に対する罰を、誰かが受けなければならなかったのです。そこでキリストは神から人類救済の使命を受けて地上に下ったのです。神はキリストを十字架につけ、キリストの上に人類の罪を置き、神の怒りをその上に注ぎました。その時、キリストは人を救う救世主(メシア)となったのです。

 出エジプトの時、イスラエル民族は家の門柱に小羊の血を塗るように命じられました。その夜、神のさばきは、身代わりの小羊の血の塗ってある家を過ぎ越し、血のない家に下りました。キリストは神の小羊です。キリストが私たちの代わりに罰を受けてくださったので、神のさばきは私たちの前を過ぎ越していくのです。人はその血によって赦され、神の義となるのです。キリストを信じた人は、神の目には義人となるのです。生前の善行がその人を義とするのではなく、神のキリストの血の力によって義となるのです。

 

 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。

 そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。(ヨハネの福音書3章16〜21節)

 

 神はあなたを神の国に入れるために、大きな犠牲を払ってキリストを捧げてくださったのです。これが神の愛なのです。これが福音(良き知らせ)なのです。喜んでください。あなたがキリストを信じるなら、あなたのすべての罪は赦されたのです。それは神のわざです。あなたはただ神の恵みで救われたのです。恵みとは、何の働きも無い者があわれみによって何かを受けることです。神はあなたをあわれんで、いのちを恵んで下さったのです。あなたは永遠のいのちを受け、神の国へこれから行くのです。

 

 こうして人は死後に、「キリストを信じた義人」か、「そのままの罪人」に分かれます。キリストを信じた罪人は、キリストの血によって救われ、神の国を相続します。しかし、キリストを信じなかった罪人の魂は、「よみ(ギリシャ語:ハデス、ヘブライ語:シオール)」に留置され、さばきの日まで待たされます。

 

キリストの十字架以降の死後の世界観

 

 2000年前にキリストが来る前、アブラハムの神を信じていた者は「よみ」の中の「アブラハムのふところ」に入り、そうでない者は、そのまま「よみ」に留められました。

 教会の「使徒信条」には「キリストは十字架つけられ、死にて葬られ、よみに下り」という一文があります。キリストは死んで「よみ」に下りました。そして、「アブラハムのふところ」にいた旧約時代の聖徒たちを引き連れて、天に凱旋したのです。文字通り「よみ」がえったのです。これが本当のよみがえりです。

 

 神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました(コロサイ2章15節)

 

 キリストは十字架の勝利により、旧約時代の聖徒たちを解放し、第三の天にあるパラダイス(一般的にいう天国)へ引き上げたのです。そして、キリストは天の神の右の座に着きました。キリストが天に凱旋した時から、死後にキリストを信じた者たちの行く所は、「よみ」ではなく、天の「パラダイス」になったのです。(黙示2章7節)

 

 西暦がキリスト以前B.C./Before Christとキリストの支配(A.D./Anno Domini=主の支配)に暦を分けたのは、キリストの到来によって、世界に大きな変化が起こったことを示したためです。

 

 そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。

 このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。(使徒3章2021節)

 

 キリストは今や天において神の右に座しています。信仰者は死後に天に凱旋しています。しかし、キリストはいつまでも天にとどまっているのではありません。いつか訪れる終末(大患難時代)の前に、まずキリストは空中まで戻ってこられます。(詳しくは「今を生きる希望」をご覧ください。)

 そして、「万物の改まる時」(終末)が来ると、神は再びキリストを地上に遣わします。キリストは再び帰って来るのです。そして、はびこっている地上の悪のすべてを成敗します。(詳しくは「時のしるし4 様々な前兆と大患難時代」をご覧ください)

 

千年王国

 

 そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます。(マルコの福音書13章)

 

 キリストが地上に再臨すると、キリストは全世界の人々を集めてさばきます。大患難時代の殉教者たちは復活し、キリストと共に統治します。その他の者たちは「よみ」に落とされます。

 

 また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。

 また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。

 そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。(黙示204-6)

 

 大患難時代の後、エルサレムを中心にしたキリストの千年王国が始まります。しかし、これですべてが終わった訳ではありません。

 

 また私は、御使いが底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から下って来るのを見た。彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕え、これを千年の間縛って、底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。(黙示20章1-3節)

 

 悪魔(サタン)はまだ「底知れぬ所(アビス)」につながれたままで、滅んではいないのです。ですから、この時代にはまだ「死」が存在しています。千年の終わりに、サタンは再び放たれ、世界は再びキリストに刃向かうのです。

 

 しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され、地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海べの砂のようである。

 彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。(黙示207-10節)

 

 サタンが地上で再活動を始め、世界中がサタンを信じて、エルサレムの都に向かって来ます。千年の平和は終わります。しかし、キリストはその力を現し、今度こそサタンを完全に滅ぼしてしまいます。

 サタンが滅んだ時、神の最後の審判が始まります。

  

白い御座のさばき(最後の審判)

 

 また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。

 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。

 海はその中にいる死者を出し、死もハデス(よみ)も、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。

 それから、死とハデス(よみ)とは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。(ヨハネの黙示禄20章)

 

 創世記の時代から「よみ」に留置されていた全ての人類が、よみがえって「永遠のからだ」に復活させられます。そして、一人ひとりの罪が神によってさばかれます。

 

 人には神から与えられた責任をどのように果たしたか、神に申し開きをする時が来ます。それが神の白い御座のさばきです。実際には、聖書に「最後の審判」という言葉は出てきません。この白い御座のさばきを最後の審判と呼んでいるのです。

 この世においてさえ、人は誰でも罪に対して怒り、刑罰を求め、罰されるまで怒りはおさまりません。善悪を知っているからです。神も同じです。神のさばきは完全で正しく、隠されていた罪はすべてあらわにされます。

 

 キリストを信じた者たちは、キリストの十字架の血によって、すでにキリストの花嫁(教会)となっています。彼らの罪はキリストが背負い、その刑罰はキリストが受けました。彼らには白い御座のさばきはありません。

 しかし、キリストを拒否した者たちは、自分で自分の罪を贖わなければならないのです。さばきで有罪となった者たちは、刑罰として悪魔と共に火の池に落とされます。これが第二の死です。彼らは永遠のからだなので、その刑罰は永遠に続きます。

 白い御座のさばき以降は、もはや誰も死ぬことがないので、死とよみ(ハデス)も火の池に投げ込まれます。

 こうしてキリストは、すべてに勝利し、神のキリストとしての使命を終えます。

 

 それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。  

「彼は万物をその足の下に従わせた。(詩110篇1〜4節)」からです。

 ところで、万物が従わせられた、と言うとき、万物を従わせたその方がそれに含められていないことは明らかです。

 しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。

(第一コリント152428節)

 

新しい天と地 新しいエルサレム

 

 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。

 「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

 すると、御座に着いておられる方が言われた。

「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」

また言われた。

「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」

 また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。(黙示録21章1〜7節)

 

 神はこの世界をすべて新しくされます。海でさえ無くなるといいます。その新しい天地がどのようなものなのか、私たちには想像もつきません。しかし、そこには死も、病も、戦いも、罪も、涙も無い約束の地、永遠の神の国です。これが本当の希望なのです。

 

 その日、新しいエルサレムが天から降りてきます。これは何でしょう? これはキリストの花嫁である教会です。キリストを信じた者たちは、このエルサレムの都に住むのです。

 

 また、都の城壁には十二の土台石があり、それには、小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。(黙示録2114節)

 

 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。(エペソ2章2022節)

 

 教会はキリストを礎石とし、使徒と預言者を土台にして建てられている神殿です。その神殿は、信仰を持った一人ひとりの聖徒が生ける石となって構成されています。もしあなたがキリストを信じたなら、キリストを頭とするキリストの体となり、キリストの花嫁となり、神の神殿となるのです。

 

 あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。なぜなら、聖書にこうあるからです。

「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」(第一ペテロ2章6節)

 

 こうして、宇宙全体の秩序が回復するという大団円が起こります。 創世記で失われた、いのちの木への道が開かれ、人は神と共に住みます。

 人の真の希望と平和は、真の神の元へ帰ることです。この世は偶然に生まれ、偶然に終わるような、適当なものではありません。この世は神の世界であり、いつかすべてが素晴らしいものになるのです。

  

  死後の世界を科学で探査することはできません。しかし、聖書の死後の世界を信じられる可能性を提示することはできます。そのひとつが聖書の預言、時のしるしです。この世に対する神の預言を調べると、あまりに確かなので恐ろしいほどです。聖書預言の確かさを見れば、死後の預言も確かではないかと予測できます。

 

 神は様々な「時のしるし」を人々に与えて警告しています。でも、あなたが聖書の預言を自分で調べて納得しない限り、死後の世界も本気で信じることは難しいでしょう。