本当の信仰者とは

 

 真のクリスチャン(聖徒)とは一体どういう人なのでしょうか?

 一般的には、クリスチャンは洗礼を受けて、教会に通う人であり、聖徒ということになります。しかし、その人が本当にキリストを信じている聖徒かどうかは、それだけでは分かりません。教会に熱心に通う人だから、その人が真の信仰者であるとは言えません。

 

イエスは主

 

 クリスチャンとは、自分を罪人と認め、悔い改めて神に立ち返り、キリストが自分を救うために十字架の犠牲を払って、その血によって自分の罪を贖なってくださったと信じ、キリストを主と告白し、キリストの花嫁として自分の身を聖めて生き、キリストの再臨を待ち望む者です。

  真の信仰者とは、キリストを主人(夫)にする人です。キリストは夫として、教会である妻を愛して、悪魔に捕らわれた妻の救出のために、その身を犠牲にしました。それは妻を愛するがゆえです。いのちを投げ出して愛してくれた夫を愛するなら、夫の喜ぶことをして、自分の愛を現そうとするでしょう。

 

 「キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」(第二コリント5章15節)

 

聖霊の宮

 

 人は生まれながらに罪を持ち、失われています。人がキリストを信じるということは、実は自力ではできないのです。聖霊が人の目を真理に開かせるのです。人の心に聖霊が住んだ時、人はキリストを信じることができるのです。それが新生です。キリストを信じた者の心には、聖霊が住みます。これを聖霊の内住といいます。その人は聖霊の宮(神殿)となります。罪深い人間に、神の聖霊が宿るのです。これが新しく生まれること、新生です。

 

 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」

 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」

(ヨハネによる福音書3章3〜6節)

 

 新生した人、それが真の信仰者です。いわゆる「ボーンアゲイン・クリスチャン(Born again Christian)」とは、聖霊によって生まれた信仰者です。水によって生まれるということは、女によって生まれるということです。生まれながらの人は聖霊によって新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。聖霊が人の目を開く時、キリストを信じることができるのです。それは聖霊のわざです。新しい誕生です。これは人間のわざではありません。

 「選び」という教理があります。予定説などと言われますが、神の選びは聖霊のわざなのです。

  

御霊のバプテスマ

 

 人がキリストを信じた時に起こる事は、キリストの体である教会に御霊によってつぎ合わされることです。この御霊によるバプテスマを受けて、人はキリストの花嫁なる教会につながれ、新しく生まれるのです。これは私たちには見えないことですが、いにしえの昔からなされている新しい創造です。

 

 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネの福音書3章3節)

 

 もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。(ローマ人への手紙8章9節)

 

 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。(ローマ人への手紙6章)

 

 表面的にバプテスマを受けた者が真のsなのではなく、御霊によって新生した人が真の聖徒なのです。このキリストの教会は、目に見えるこの世の教会の姿ではありません。

 

 なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。(第一コリント12章13〜20節)

 

 今日も世界中で真の聖徒が続々と生まれています。御霊は今日も、その人をキリストの体なる教会にひとり一人つないで、新しい人を創造しているのです。国籍も、民族も異なる多くの人々が、御霊によって、ひとりの花嫁として、形作られているのです。この花嫁が完成する日、それが教会の完成の日、異邦人の完成の時、携挙の時となります。

  

新しい人

 

 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

 これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。

 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。

 こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。

私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。

 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(新約聖書 第二コリント 5章17〜21節)

 

 キリストを信じ、聖霊が内住した人は、誰でも古い人から新しい人へ変えられた人です。その人は、この世においてはいまだに罪人であり、罪を犯してしまう人間なのですが、もはや神から見れば、聖なる神の民、「聖徒」であり、義人なのです。

 

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。(第一コリント6章19〜20節)

 

 聖霊は人格を持っています。もし人が聖霊を悲しませれば、キリストを悲しませることになります。聖霊と良心はあなたに、罪から離れるようにと語ります。キリストを愛しているなら、聖霊に従って生き、自分の行いによって、神の栄光を現わし、神への愛を現そうとするはずです。

 あなたがキリストを信じたなら、聖なる霊があなたの内側におられます。その聖なる霊にふさわしい宮となるために、その体を聖く保つべきなのです。

 

 もちろんクリスチャンになったからといって、聖人になって罪を犯さなくなくなる訳ではありません。相変わらず罪を犯す失敗の毎日でしょう。しかし、神を愛するなら、罪から離れたいという思いが起こるはずなのです。なぜなら、神は聖であられ、罪を憎んでいるからです。

  

神の恵みを放縦に変える人

 

 神の救いは恵みです。恵みとは、価値無き者に与えられる恩恵です。救いに関して、人の行動には何の価値もありません。何か良いことをしたからキリストを信じるようになったのではなく、神の恵みで信仰が与えられたので救われたのです。しかし、初代教会の時代、信仰者側の考え方によって、大きな問題が起こりました。キリストが自分の罪を贖ってくれたのだから、もはやどんな罪を犯しても大丈夫だからもっと罪を犯そう、と考える者たちが出て来たのです。キリストを信じさえすれば、もう罪はないのだから、悔い改めなくても大丈夫。優しい神は、ありのままの自分をずっと受け入れてくれるのだから、罪を犯し続けても赦されて天国に行ける、という考えです。つまり、この世と調子を合わせて生きていても、神は救って下さるというのです。このような「行い」を軽視する背教は、近年のキリスト教会でも流行しています。しかし、そんな風潮に対して、使徒パウロは教会に向けてこう教えました。

 

 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(ローマ12章2節)

 

 キリストを信じた者は聖徒です。神の力によって聖なる民となったのです。しかし、だからといって、聖人君子になって、罪を犯さなくなる訳ではありません。いまだにこの世に生き、罪人のままです。しかし、キリストが犠牲を払ったのは、あなたへの愛のためです。あなたはキリストがいのちをかけて愛した人です。もし人を愛したなら、愛する人の喜ぶことをしようとするでしょう。同じように、あなたがもしキリストを愛しているなら、愛するキリストの喜ぶことをするはずでしょう。

 

 主は言われた。「では、主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食べ物を与える忠実な思慮深い管理人とは、いったいだれでしょう。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。わたしは真実をあなたがたに告げます。主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。ところが、もし、そのしもべが、『主人の帰りはまだだ。』と心の中で思い、下男や下女を打ちたたき、食べたり飲んだり、酒に酔ったりし始めると、しもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。そして、彼をきびしく罰して、不忠実な者どもと同じめに合わせるに違いありません。

 主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。(ルカ12章35-48節)

 

 「主人の心」とは、神のみこころです。聖書の教会への警告は、初代教会だけに与えられたものでしょうか。いいえ、すべての教会に与えられたものです。では、神のみこころとは一体何ですか?と言う人がいるでしょう。それについてはしっかりとお

 

 「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです。なぜなら、主はこれらすべてのことについて正しくさばかれるからです。

 これは、私たちが前もってあなたがたに話し、きびしく警告しておいたところです。神が私たちを召されたのは、汚れを行なわせるためではなく、聖潔を得させるためです。ですから、このことを拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたに聖霊をお与えになる神を拒むのです。」(第一テサロニケ4章3-8節)

 

 それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。

 神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい

 罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ6章15-23節)

 

  神のみこころとは聖さを求める行いです。神は聖なるお方なので、人が聖さを求めることを喜ばれるのです。罪を離れ、聖潔に至る実を得ようと努力することが、神を愛することなのです。 しかし、罪人の私たちがどうすれば聖い生き方をすることができるのでしょうか。それは人間の努力や無理に善人ぶることではありません。それは内住の御霊に従って生きることです。

 

 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(第二コリント3章18節)

 

御霊の実

 

 キリストを信じた時に起こるもうひとつの事は、内住した御霊に人が従い始めると、御霊の実がなり始めることです。その人は次第にキリストに似た者へと変えられていきます。これが聖化というものです。もちろん人それぞれにその成長速度は違い、罪を犯してしまったり、何度も失敗しているかもしれませんが、真の聖徒は、御霊に従って成長すると、神のみこころを求め始めて行くのです。それが神を喜ばせることなのです。

 

 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。

 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。

 前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。

 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。

 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。(ガラテヤ人への手紙5章)

 

 兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。(ガラテヤ5章16-26節)

 

教会の聖さ

 

 私は前にあなたがたに送った手紙で、不品行な者たちと交際しないようにと書きました。それは、世の中の不品行な者、貪欲な者、略奪する者、偶像を礼拝する者と全然交際しないようにという意味ではありません。もしそうだとしたら、この世界から出て行かなければならないでしょう。

 私が書いたことのほんとうの意味は、もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということです。外部の人たちをさばくことは、私のすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。外部の人たちは、神がおさばきになります。その悪い人をあなたがたの中から除きなさい。(第一コリント5章10−13節)

 

 パウロは人の交際についても語っており、教会の外部の未信者と、教会内部のクリスチャンに対する扱いを分けています。教会外部の人たちは神を知らず、罪も分かっていないので、不品行を行うのは当然の結末です。その様な人々をさばく必要はないと言います。その人たちをさばかれるのは神だからです。教会は彼らを救うためにも、キリストの使節として彼らと交際するように勧めてます(第二コリント5章20節)。

 しかし、パウロは、教会内部のクリスチャンの罪に対しては決して容赦していません。最近、教会では「さばいてはならなない」という御言葉を曲解し、教会内部の罪もさばかないようにする傾向があります。そのために現在の教会は、教会外の世界以上に罪が蔓延しやすい状態になったのです。司法が崩壊すれば、混沌がやって来ます。

 使徒は教会の聖さを守るために罪を止めないクリスチャンをさばくよう勧めています。なぜなら、不従順な民には神の怒りが下るからです。

 

 あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。

 あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者これが偶像礼拝者です。こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行ないのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。ですから、彼らの仲間になってはいけません。

 あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。なぜなら、彼らがひそかに行なっていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。 「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」

そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。

 また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。(エペソ5章3-18節)

 

 あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。

 不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。

 あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。

 すべてのことが私には許されたことです。しかし、すべてが益になるわけではありません。私にはすべてのことが許されています。しかし、私はどんなことにも支配されはしません。食物は腹のためにあり、腹は食物のためにあります。ところが神は、そのどちらをも滅ぼされます。からだは不品行のためにあるのではなく、主のためであり、主はからだのためです。神は主をよみがえらせましたが、その御力によって私たちをもよみがえらせてくださいます。

 あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりの者は一心同体となる。」と言われているからです。しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。

 不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行を行なう者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。(第一コリント6章9~20節)

 

 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。(ガラテヤ6章7-9節)

 

 人の救いは恵みであり、信仰は恵みです。人は行いによって救いを受けたわけではありません。しかし、救われたなら、行いによってその信仰が現れるはずです。なぜなら、その人は、自分を救って下さったキリストへの愛を、キリストに現したいと思うはずだからです。神を喜ばせたいと神のみこころを行おうとするからです。それが御霊の実となって現れ、その実を神は喜ばれるのです。神は人を愛しています。もし人が神を愛するなら、神の命令に従おうとするはずです。しかし、もし人が神を愛していないなら、神の命令を守ることを嫌がり、悪魔の好むことを行おうとするはずです。悪魔は人を不品行に誘います。神を愛すると言いながら、不品行を悔い改めずに続ける者は、神を愛しておらず、憎んでいるのです。信仰義認で満足し、その教理を曲解して生きるなら、それはその人が実際は神を愛していないことを現しているのです。

 

 私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか

 もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。

 さらに、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」

 あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。

 ああ愚かな人よ。あなたは行ないのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。

 私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行ないによって義と認められたではありませんか。あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされ、そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。(ヤコブ2章15-24節)

 

信仰義認だけで生きるなら、ヤコブの手紙は藁の書です。しかし、聖書は人の信仰は行いによっても表されるのだと伝えています。

 

さばきは神の家から

 

 なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。(第一ペテロ4章17節)

 

 主イエスはご自分が再臨する世の終わりの時に、神の家へのさばきを行うと警告しています。

不法を悔い改めずに続ける人たちは、神のみこころを拒んでいます。それは神を愛していないという表れです。そして、神は与えられた賜物に応じてクリスチャンをさばくと警告されています。(マタイ 13章15-28節)

 黙示録2章には、教会に対してキリストからの警告の言葉があります。  

 

(エペソ教会宛)

 それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう(黙示2章5節)

 

(ペルガモ教会宛)

 だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。(黙示2章16節)

 

(サルデス教会宛)

 「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさいもし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。(黙示3章2-3節)

 

(ラオデキア教会宛)

 「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない

 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。(黙示3章15-19節)

 

 とても目立つのは「悔い改めなさい」と「行い」という言葉です。現在の教会では、「行い」よりも「信仰」の方に重きが置かれていますが、天の御国では、信仰による救いは当たり前なのですが、各自の地上での「行い」によって報いがあると伝えています。

 

 与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。

 というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。(第一コリント9~15節)

 

 信仰は聖霊のみわざです。そこからは各人の信仰によってなされた行いです。神は終わりの日にそれを評価してくださるというのです。

 

 また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。

 花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。」

(黙示録 19章6-8節)

 

 信仰は行いによるものではありません。聖霊によるものだからです。しかし、信仰を得てからの行いは、愛の問題です。各人のキリストへの愛と信仰は「行い」によって表されるのです。ですから、信じた後の行いも関係ないから罪を犯しても大丈夫と教えるクリスチャンは、聖書を読んでいないか、自己中心的な解釈をして、背教を信じている人です。

 

 彼は私に言った。「この書の預言のことばを封じてはいけない。時が近づいているからである。不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」

 見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」

自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者はみな、外に出される。(黙示録22章10-15節)

 

 恐ろしいことですが、たとえ信仰告白をした者であっても、主の御名によって奇跡や預言を行ったような有名な人であっても、「神のみこころ」を行おうとせずに、「不法」を悔い改めずに続けていたら、主は厳しくさばくと警告しているのです。

 

 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。

 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。

 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」(マタイ7章21-27節)

 

 たとえ癒やしの賜物を持つような人でも、それは御霊の行い(わざ)であって、その人の信仰が主に認められたから、賜物が与えられた訳ではないとのです。すごい賜物を持っている人でも罪を犯して堕落していくことがあります。なぜ神のみこころを知っていながら、行おうとしなかったのでしょうか。それは主人を愛していなかったからです。主人よりも愛するものがこの世にあったからです。キリストを愛する人は、キリストを喜ばせようと御霊に従い、罪を離れて、「神のみこころ」を行おうと、自らを聖くしようと努力するはずです。しかし、神よりもこの世を愛している人は、神の愛よりも悪魔の言葉を選んでしまうのです。あなたを愛して下さったキリストを、あなたが愛するのなら、そのキリストの愛に応えて、あなたも神のみこころを行いたいとは思いませんか。それが花婿キリストを想う花嫁教会のあるべき姿です。

 

聖霊のバプテスマ

 

 過越の晩にキリストを見捨てた弟子たちの姿は、まるで私たちのような姿です。おくびょうで、人を恐れ、高慢で、勇気の無い弱い人間。ところが「使徒の働き」2章を読むと、ある日を境に弟子たちは別人になっていました。何が起こったのでしょうか。そのヒントはバプテスマのヨハネの言葉にあります。

 

 ヨハネはみなに答えて言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。(ルカの福音書3章16節)

 

 バプテスマのヨハネは、キリストが来て、いすれ聖霊のバプテスマを授けるだろう、と語りました。つまり、キリストご自身が聖霊を注いでバプテスマを授けるというのです。

 その後、復活したキリストがオリーブ山から天に昇る時、キリストは弟子たちに、ある事を命じました。

 

 彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」(使徒の働き1章4〜5節)

 

 この「聖霊のバプテスマ」は、人が新生する時に起こる「御霊のバプテスマ」とは別物です。御霊は信じた人をキリストの体につなぎます。これは御霊のわざであり、キリストのわざではありません。しかし、「聖霊のバプテスマ」はキリストご自身のわざ、行為なのです。

 

キリストの命令通り、エルサレムで祈って待っていた弟子たちの上に、聖霊が注がれました。すると大きなしるしが起こり、周りの人たちは何が起こったのかと驚いて見に来ました。その時のペテロは、もはや以前のペテロとは全く違いました。彼は大胆にキリストをあかしし始めたのです。

 彼らはキリストによる聖霊のバプテスマを受け、神の力を受けたのです。その日から彼らには御霊の賜物が与えられ、どんな脅しにも屈服せずに伝道をし始めました。それは彼らの努力ではなく、聖霊の力でした。

 

リバイバル

 

 キリストが十字架にかかる前は、御霊はまだ注がれていませんでした。キリストが十字架の贖いを完了し、天に昇った時、キリストご自身が、この聖霊のバプテスマを授け始めたのです。キリストが聖霊のバプテスマを注がれたのは、初代教会のペンテコステの出来事、たった一回だけだという考えがありますが、使徒の働きの中では、その後何度も聖霊が人々に注がれています。聖霊を受けた人々はみな変貌し、大胆に福音を宣べ伝えました。

 過去には、世界中でリバイバルが起こった歴史があります。リバイバルとは、使徒の働き2章の繰り返しです。それはすべて、この聖霊のバプテスマによるキリストのみわざでした。その時、御霊の賜物が激しく現れることもあり、現れなかったこともあります。異言、奇跡、癒やしなどが起こる場合もありますが、起こらない場合もあります。不思議な力を得ることが、聖霊のバプテスマの目的ではありません。聖霊のバプテスマの目的はただ、キリストの証人となる力を得ることです。

 

 この「聖霊のバプテスマ」の教理は、教派によって違いがあります。信じた時に聖霊のバプテスマをみんな受けているので、欲しいと祈ることは不要だという教えもあります。私としては、自分の所属する教会の教理に固執するのではなく、聖書を自分で調べて、自分で判断して下さいとしか言えません。もしあなたが、キリストを愛し、真のクリスチャンとして、この素晴らしい賜物を受けたいと願うなら、主イエス・キリストに授けて下さるようにと祈ってみてはいかがでしょうか。これは「父の約束」なのですから。

 

  わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。

 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。

 とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(ルカ11章9〜13節)